50年も前は、ワープロを使っていて、コンピューターなどはWindowsすらなく、MS-DOSのコマンドを打ち込んで動かしていた時代で、DVDなどはなく、薄っぺらいフロッピーディスクかなんかを差し込み、カチャカチャと動かしていたコンピューターも、Windowsga登場し、インターネットの時代になり、Googleなどの便利な検索エンジンが当時し、大抵のことはGoogleで検索すれば調べられるようになり、ググるなんていう言葉もできました。
さらに時代は進み、今やChatGPTに代表されるAIの時代、検索語を打ち込んでGooglede検索するのではなく、もう調べたいことをそのままの文章で質問すると、ものの数秒で答えが返ってきます。
桃太郎を2000字以内にまとめて要約文をつくってくれと依頼すると、またたくまに出来上がってきて、そこそこ実用に耐えうるレベルのものが出てきます。
AIは所詮はAI
AI崇拝者は、AIを万能なツールのように見る人もいます。
確かに、大量のデータを記憶し、整理し、ある一定のルールに基づいて必要なデータを抽出してくるといったような使い方をするのであれば、とても人間がかなうものではありません。
膨大なメガデータの中から、瞬時にどんぴしゃの情報をピックアップするというようなことはまさにAIが得意とするところです。
ChatGPTにしても、いろいろな質問をしてもすぐに適切な回答が出てくるので、AIはやっぱり万能だなと思ってしまうのですが、元はといえば人間がプログラムしているもので、ある言語体系の中から、文法やルールに従って、人間の質問に続く可能性の高い文字列を並べているにすぎないのです。
つまり、AIは、1つ1つの単語は経験や感覚に対応しておらず、人間の質問の意味や意図を理解していません。
AIは人間を超えるのか
よくAIが単純労働はもちろん、高度な専門職の仕事まで代替していくのではないかと言われています。
Aiが人間の知性を超えるシンギュラリティーが本当にくるのかというと、たとえ来るとしてもまだまだ遠い先の話だと思われます。
なぜならば、AIが自律t系にものを考えて判断するには、人間の五感に相当する外受容と、空腹感などの内受容を伴う必要があり、今のところまだそのどちらも持っていないからです。
たとえAIが人間のように感覚器官を備えて、そこから得たデータやメモリー内の知識などを一括処理して出力ができるようになったとしても、それは単なる人間が入力したプログラムにそって予測したりしているに過ぎません。
AI開発は慎重に
今やAIによって、本物・事実と見分けがつかないフェイク映像を素人でも作れる時代になりました。
AIの開発がどんどんと進んでいっている中で、これだけ余波の大きいものをいきなり社会システムに持ち込んだりすると、大混乱を招きかねません。
欧州では、AIの規制の議論が本格化してきていますし、日常生活においてどこがどう変わるのか、それに対して人間は大丈夫なのかというところをもっとしっかりと検証していかなけれならないのに、こちらのほうはどうも遅れがちです。
AIとはうまく付き合い、利用できるところは利用して、より便利に使える道具としていくために、AIの利便性だけに目を向けるのではなく、利用に関して出てくる問題をしっかりと考えながら開発が進められていくことが重要なのでしょう。