挫折しても諦めなかったカー娘たちに最後に微笑んだ勝利の女神

平昌オリンピックの女子カーリング、メダルをかけたカーリング発祥の地でもあるイギリスとの試合、息をのむほどの大接戦でした。

おめでとう そだね~カー娘たち

結果は日本が勝手、銅メダルを獲得することになるのですが、大変な試合でした。
1点リードで迎えた最後の第10エンド。ここで日本が1点取られると延長、2点以上取られるとイギリスが勝利し、日本は4位となりメダル獲得ならずとなる局面でした。

イギリスの選手が投げたストーンがレーンをすべっていく。

イギリスの選手が投げたストーンが勢いよく日本のストーンに当たり、ストーンははじかれますが、イギリスのストーンがストッパーとなって逆にサークルの中央部に近づいていってピタリと止まった。

日本の勝利です。

イギリスの実力からすると、よくて同点で延長戦へ、下手をすれば2点以上とられて負けていてもおかしくない状況だっただけに、英国の応援団は茫然、日本の選手すら一瞬何が起こったかわからなかったし、テレビの解説者も思わず 「あっ。。。」と声を出してしまうほどでした。

自分らしさを忘れず、笑顔で試合に臨んでいたそだね~カー娘たち。
勝利の女神は、最後の最後にそだね~ジャパンのカー娘たちに微笑んでくれたのでした。

カーリングは、氷上のチェスと言われるくらい頭も使うスポーツで、氷の微妙な状態によって、ストーンのすべりが刻々と変わってきますし、ストーンを投げるときの回転やスピードでもいろいろと結果がちがってきます。
思うようにいかない中で、いかにベストなものを選択し、思うものに近づけていくかというガマンも重要だと言われています。

みていても、あそこであのショットがああ決まっていれば・・・と思うようなところもありますが、それは相手も同じこと。
思うようにいかなくても、がまんし、がまんし、最善の手をつくす。

多くの挫折をしながらもあきらめなかったそだね~カー娘たちに、最後の最後にくれた女神様のご褒美だったのかもしれません。

挫折で潰れそうになりながらも諦めなかったそだね~カー娘たちの底力

そだね~の独特の言い方が可愛い、笑顔が素敵ということで人気となり、みごと日本カーリング史上初の五輪メダリストになったカーリング女子(カー娘)の選手たち。
カーリング界へ大きく貢献し、その歴史を書き換えたと言っても過言ではないと思いますが、けして道は平たんなものではりませんでした。

リードの吉田夕梨花選手、セカンドの鈴木夕湖選手、サードの吉田知那美選手、スキップの藤澤五月選手、リザーブの本橋麻里選手、5人のカー娘たちは、それぞれに挫折を味わい、時には打ちのめされ、時には劣等感に悩み、移籍を余儀なくされたり、戦力外通告を受けたりしました。

それでもやっぱりカーリングが好きという想い、挫折しても諦めずに上を目指して努力し続け、みごとメダリストになり夢をかなえたのです。

姉に負け劣等感をもち腐っていたリード

各エンドの1投目と2投目を投げるリードの吉田姉妹の妹の吉田夕梨花選手は、道銀に所属していた姉の知那美選手がソチオリンピックの代表となったのとは対照的に、ソチオリンピックの時からのLS北見のメンバーだったので、道銀に敗れてソチオリンピックの夢舞台には立つことができませんでした。

姉がソチオリンピックに出場したのですが、姉に対する劣等感みたいなものもあり、内心は穏やかではなかったと思います。
ソチオリンピック後には、周りから「お姉ちゃん、すごいね」と声をかけられ、オリンピック選手の妹として見られるのが嫌で、落ち込み不安定になった時期もありました。

他のメンバーに育ててもらった真面目なセカンド

各エンドの3投目と4投目を投げるセカンドの鈴木夕湖選手は、146cmと小柄で本人が「大した選手じゃなかったし、マリちゃん(本橋選手)に誘われなければ、やめていた」と言うとおり、カーリングの選手としてやっていくことに悩んでいた時期もありました。
カーリングの競技生活を続けていくために、大学を卒業して就職していた網走信用金庫も辞め、半年間失業も経験しています。本橋麻里選手がLS北見(ロコ・ソラーレ)を結成した当初からのメンバーでしたが、最初は成績をあまり残せませんでした。
LS北見は、途中から吉田知那美選手と藤澤五月選手が加わり、メキメキと力を発揮できるようになっていきます。

「私はよくなかった。みんなのショットに助けられた。でも仕事は投げるだけじゃない。その他のことでも頑張ってたのが良かったと思います」と、チームに育てられたことを忘れず、韓国に敗れた後、メダルがかかった一戦の日も、他の選手がまだ寝ているとき、本橋麻里選手と早めに会場入りして氷の状態を入念にチェックしていました。

戦力外通告までされた落ちこぼれのサード

各エンドの5投目と6投目を投げるサードの吉田知那美選手は、妹の夕梨花選手と一緒に平昌オリンピックに出場しましたが、ソチオリンピックの時は道銀に所属していてプレーをしていました。
ソチオリンピックでは5位入賞だったがメダルには届かず、さらに滞在中のホテルで所属していた道銀から来シーズンはチームには必要ないという戦力外通告を受けました。

ソチオリンピックでは、技術やメンタル面で足らない部分があり、それに悩むようになり、積極性が出せずスランプになり日本代表の選考からはずれてしまったのです。

そんな失意のどん底、捨てる神あれば拾う神ありです。
LS北見首相の本橋麻里選手が再びプレーをしてみないかと声をかけてくれたのです、

だからこそ、拾ってくれたLS北見にすごく感謝し、「麻里のためにもメダルが欲しい」という想いを強くしていきました。

居場所すら失いかけていたスキップ

各エンドの最後7投目と8投目を投げるスキップの藤澤五月選手もまた、ソチオリンピックの出場を逃し、涙をのむという挫折を乗り越えてきました。
カーリングは当初はチーム青森が強く、チーム青森が解散すると中部電力がカーリング女子界を牽引していたといってもいいほどで、多くの人は、藤沢五月選手が率いるカー娘たちがソチオリンピックに出場するものだと思っていましたが、日本選手権では肝心なところでミスがでてしまい道銀に敗れてしまい、ソチオリンピックの出場を果たすことができませんでした。一緒にやってきた仲間も結婚や現役引退をして、中部電力はカーリング部への力を注ぐこともなくなってしまいました。

カーリングに専念することすらままならない状態のときに、負けず嫌いで努力家の藤沢五月選手のもとにLS北見からオファーがきて移籍という形で、LS北見に移ることになりました。
LS北見は、ここでも将来のメダリストのピンチを救っていたのです。
そして、苦杯をなめた道銀を破り、古巣の中部電力を破り、平昌オリンピックの切符を手にすることになるのです。

一度は打ちのめされ、それでも諦めなかったリザーブ

試合には出場しないが、他のメンバーをサポートしたり氷の状態をチャックしたりするリザーブの本橋麻里選手は、チーム青森に所属していて、オリンピックでもトリノオリンピック7位入賞、バンクーバーオリンピック8位入賞を果たしていたが、チーム青森の主力メンバーが離脱して戦力が低下していく中、紆余曲折があり、2010年常呂町を拠点とした「LS北見(ロコ・ソラーレ:太陽の常呂っ子を意味する造語)』を結成し、ソチオリンピックを目指した。

ところが結果は、ソチオリンピックを目指した世界最終予選日本代表決定戦の予選リーグで中部電力に負けてしまい4チーム中3位という成績に沈んでしまった。

所属していたチームを出て、挫折を味わった主役は、平昌オリンピックでは、自分が立ち上げたチームの創始者であり主将でありながら裏方に徹し、勝ったときは自分の取材は短めに、敗れた日は一手に引き受け、間食用のリンゴの皮もむいたりしてサポートした。

おやつの調達はもちろん、早めに公式練習場に行き、1人で黙々とストーンを投げていた。
翌日の試合で使うストーンの滑り具合をチェックしたり、誰にどのストーンを使わせるかを考えたりしていた。
こうした裏方の努力が平昌で実を結びました。

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